春風駘蕩の記 ―Bank's archive―

銀行ではなく河岸です。雑食な趣味録。読書に映画に音楽に。政治社会に学術に特撮も。いきものがかりのリスタートまでのんびり待機しつつ、教育社会学のお勉強。

映画録「ぼくと魔法の言葉たち(LIFE,ANIMATED)」:ディズニーの魔法と、それだけでは済まない世界と

(※ネタバレ有り。)

 「ぼくと魔法の言葉たち(原題:LIFE,ANIMATED)」、心温まる感動系かなあと思いきや、想像以上に緻密なドキュメンタリー。

 大学卒業を間近に控える青年、オーウェン・サスカインド。彼は自閉症のために、2歳にして一度は言葉を失った。孤独の中にあった彼が大好きなのは、「アラジン」「ダンボ」「ライオン・キング」といったディズニー・アニメーションの名作たち。そんな彼が6歳のある日、ついに発した言葉は、「リトル・マーメイド」にある台詞だった!オーウェンは、ディズニーの生み出す物語やキャラクターを手掛かりに、他者や社会の在りようを理解し、いつしか意味ある言葉をも取り戻す。

 と、ここまでが、予告や宣伝でもクローズアップされた内容だ。多くの人は自力で、いつ達成したかも分からないほど自然に出来、また日々行っているのであろう他者や社会の理解。だが、オーウェンの感受性にとっては、周囲の世界は複雑に過ぎ、刺激も強すぎる。そんな彼にとって、単純化され誇張されたディズニー・アニメの世界は、知覚と理解を助けてくれるものである、そうだ。「物語の力」の一つを、ありありと見せられたかのよう。

 しかし、この映画が直に映し出すのは、あくまで青年の、大学を修了し「自立」の時を迎える時点での、オーウェンとその周囲の姿だ。如上の過去については、インタビューや写真、再現アニメ(ドラマではなく!)を通じて構成される。(勿論十二分に見事だが。特に、言葉を取り戻すまでを振り返る両親の姿からは、それが今なお感情を強く揺さぶる、現在に通じる記憶であることが推察できる。)

 このドキュメンタリーの主眼は、ディズニー作品を手掛かりに現在を生きる彼の、「自立」に向かう物語にこそある。そこでは、ディズニー・アニメーションが今も変わらず彼を支える一方、ディズニーの世界には表れない「社会」の側面が、壁となって立ちはだかる。

 一つの軸となるのが、恋人(恐らくはオーウェンに近い障害を抱えているのだろう)との関係だ。アニメの中のロマンスは大概、軽いキス付きのハッピーエンド。しかしオーウェンと恋人との人生は、他の数多の恋人同士と同様、それだけで済むはずもない。オーウェンの兄ウォルトが、「軽くない」キスや「それ以上のこと」を、教えようとするシーン。何気なく振舞おうとするウォルトだが、映像からはその苦心が伝わってくる。「彼(オーウェン)の世界の基本は、ディズニーだからね」。

 そして訪れる、一面ではありふれた、しかし痛切な破局。「男の子が愛する女の子を失ったら?愛の力で取り戻す?」と問うオーウェンは、「他の相手を探す」との答えに、癇癪に近い憤りを露にする。一時間半ほどの本作で、彼が「怒り」を見せる数少ない場面だ。

 作品の最後まで、彼の周りは、ディズニーに充ちている(部屋の中や身の回りにも、随所にディズニーグッズ)。オーウェンとディズニーがかける魔法は、家族や各種のケアと同様、確かに彼の力であり支えであり続けているのだ。しかし、その魔法だけでは足りないこともある社会で、彼は「自立」を目指し歩む。大学を卒業し、独り暮らしを始め、恋人との別れに折り合いを付けようと葛藤し、映画館(!)の採用面接を受けて就職し......。

 物語を通じて社会を解釈するという点に(本作とは質が全く違うだろうが、自分にも思い当たる節がややある)惹かれて見た映画は、障害を抱えて生きる一つの人生を、特にその重要な転機を、繊細に追ったドキュメンタリーだった。いい意味で裏切られたという感じ。

 

追記:社会学徒の端くれとしては、作中で理想として(オーウェン本人も含め)語られる「自立」が、福祉やケアと絡めてどのように意味付けられてきたのか少々気になる。勿論目指すべき価値ではあろうが、単純に理想化されてきた/されているわけじゃないかも。