春風駘蕩の記 ―Bank's archive―

銀行ではなく河岸です。雑食な趣味録。読書に映画に音楽に。政治社会に学術に特撮も。いきものがかりのリスタートまでのんびり待機しつつ、教育社会学のお勉強。

読書録「奇術師の家」魚住陽子:愛に業に、家という場で

 読書好きとして幸運なことに、自分の知らない素敵な本を勧めてくれる友人がいる。その人の本棚を眺めると、自分の蔵書とそこそこ似通った、それでいて自分の知らない範囲にも手が伸びている、見事な収集が見出せる(陳列のセンスは、自分よりずっといい)。「かなりの程度本の趣味が被っているからね」とはその人の弁。被っている部分があるからこそ、被っていない部分からの恩恵が大きくなっているのだろうなと、勝手に考えている。表題の本は、そんな恩恵の一つだ。

 

 表題作「奇術師の家」の他、「静かな家」「遠い庭」「秋の棺」の四本から成る短編集。どれも、女性たちの生とともにあり、女性たちが「宰領」する場である「家」(的なもの)にまつわる物語だ。同時に、女性たちの関係性、愛とも業ともつかない相互作用の物語でもある。生の残り時間が少ない母と、母の思い出の場である旧家で同居する娘(『奇術師の家』)。瀟洒な一軒家の内部を、自らの身体の一部のように慈しみ一体化する「妻」と、その家に執着を見せる夫の愛人(『静かな家』)。マンションの室から見える学校の校庭に、儚い何かを託す主婦と、尖った頑なさを持つ上階の少女の、どこか親子のような関わり(『遠い庭』)。

 物語の中で、家という場は、女性の「宰領」する空間として現れる。主たる女性たちの思いや記憶や人生は、家という空間に滲み渡り、逆に家という場が女性たちの何かしらを規定するようでもある。両者の渾然一体たる存在感は、第二短編「静かな家」に、特にくっきりと姿を見せる。

 言うまでもなく、家という空間が、女性と結び付き溶け合う場として現れるのは、直近の日本において、家族という”私的”な領域、その具体的な空間としての家が、女性の主たる活動領域とされてきたからである。言い方を変えると、専業主婦となりケア労働を担うという女性のライフコースが典型として存在していたからだ。*1そうした背景も含め、物語の中に見いだせる美しさは、ある程度懐古的かつ古典的だ。しかし、登場する女性たちは、母や妻といった典型的なあり方から、どこか”逸脱”していたり、何かしらの欠落を抱えていたりする。「遠い庭」や「静かな家」の主人公は「母」ではないし、後者に至っては、夫と主人公の関係は、儀式的で妙に美しいものの恐ろしく酷薄だ。家という場の中で、女性たちが抱える何かしらの歪みは、他の女性(や男たち)と絡み合いながら、変容を迫られる。人も家も、ずっと安泰ではいられない。過去や現在の他者は、支えもするし傷つけもする。

 古典的な様式美の表現と、その中から静かに姿を見せる生々しい思いと。全体を通して、どこか鈍く察しの悪い主人公たちの目線を通して、それらが徐々に現れる様は、上質なミステリーのようでもある。所々で行われる、さりげない視点の転換(妻の目線での語りに、夫の視点が入り込んだり...)も、程よく幻惑的に物語を引き立てる。ある種の崩壊が描かれる「静かな家」や、もっとも業が深くミステリー然とした「秋の棺」(この短編は、他のと少し毛並みが違う)も含め、後味は不思議に悪くない。

 

 冒頭に書いた通り、この本との出会いは、素晴らしい友人に負っている。その人に教えて貰った本をダシに文章を書くのは、これが初めてではない。お互い高校生であったころ、借り受けた本で読書感想文を書かせてもらったことがあるのだ。思い返すと、何だか一方的に恩恵を受けている気がしてくる。人生経験や蓄積の差だろうか。互恵関係を目指したいところだが、さてどうすれば。

 

  

*1:

この辺の詳しい経緯や考察、近現代の家族と性別役割分業などについては、以下のような(広義の)社会学の文献がお奨めです。瀬地山(2001)・落合(1994→2004)が読みやすく、特に落合は基本を押さえている。上野(1990→2009)は重厚かつ理論的ですが、文章自体は読みやすい。

落合恵美子(1994→2004)「21世紀家族へ(第3版)――家族の戦後体制の見かた・超えかた」、有斐閣

瀬地山角(2001)「お笑いジェンダー論」、勁草書房

上野千鶴子(1990→2009)「家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平」、岩波書店