春風駘蕩の記 ―Bank's archive―

銀行ではなく河岸です。雑食な趣味録。読書に映画に音楽に。政治社会に学術に特撮も。いきものがかりのリスタートまでのんびり待機しつつ、教育社会学のお勉強。

原爆忌に寄せて:作品として残る被爆の記憶/戦争の記憶の作り方・語られ方

 広島原爆忌の夜に書いている。西から台風が近付く中、当地広島は好天の下に式典の朝を迎えたようだ。

 

 被爆をはじめとする戦災、そしてその後の人々の人生については、数多の記録が残されてきた。更には、それらの記憶や記録に基づき、多くの創作物やノンフィクションが生み出されている。小説で言えば、被爆者の日記に取材した、井伏鱒二の「黒い雨」。まさしく日記のようにどこか淡々と記述される被爆の苛烈なさまと、その後を生きる静かな悲惨。被爆の後遺症で満足に働けなくなった主人公重松たちが、せめてもの静養の最中、他の村人に嫌味がましく怠惰の誹りを受ける場面。怒りとやるせなさがこみ上げる。

 同作を原作とする映画「黒い雨」(監督:今村昌平)も苦く苦しい”傑作”だ。セットや演出を駆使した、被爆直後の惨状の再現にも息が詰まるが、この作品の真の強みは、そこからの生還後にある。被爆の後遺症が、目に見えないまま、登場人物たちを蝕んでいく。何も変わらないように見える中国地方の山村で、時の経過とともに、少しずつしかし着実に、状況が悪くなっていく。一人、また一人と生を終え、画面から消えていく。この不条理劇はしかし、今も続く現実を下敷きにする。

詩人でもある原民喜が記した「夏の花」等一連の小説・詩もまた、強い印象を残す。爆発の前、戦災の渦中、終わった後の生を、自身の被爆体験を元に、詩人の筆致で拾い上げていく。壊されてしまったのは、哀しみも含み込みつつも、静謐だった生。

 いずれの作品にも、私の故郷近くの土地や言葉が現れる。それらが呼び起こす懐かしさは、救いのない物語の中で微かな癒しとなる一方で、物語の中の苦しみを、一層近く感じさせもする。地理的な近さもあって、教育やここまでの人生の中で、被爆をはじめとする戦災の記憶に、同世代の中では多く触れてきた方だと思う。直接の経験者と共に生きられる世代の一人として、知り得たことを幸運に思う。

 

 被爆の記憶ということから、少し話を広げてみる。被爆経験をはじめとする戦争の記憶の残し方や、それを踏まえた戦争と平和の語り方については、長らく論争が続いている。今年もそれは変わらない。罵詈雑言や侮蔑に満ちた言葉が飛び交う一方で、丹念な研究や評論も多く存在する。近年のものを二つほど挙げたい。佐藤(2005→2014)は、戦争の記憶にまつわる報道の成立史を読み解き、その変遷を明らかにする。そして、お盆の慰霊と結びついた「八月十五日=玉音放送の日」を終戦記念日とし、それにまつわる記憶を中心とする報道のあり方(『八月ジャーナリズム』)が、開戦や降伏を含む歴史の忘却と裏表であることを批判する。また、古市(2013)は、戦争についての博物館の研究から、戦争の記憶の多面性と正解の無さを描き出す。そして、戦争の様態が総力戦から局地戦へとシフトし、かつ日本では長らく続いてきた「平和」が既に基礎的な体験になっている現状をも踏まえ、戦争という記憶の保存・伝達にまとわりつくある種の不可能性を明らかにする。それは、(様々な留保を付けるべきではあるが)平和の続いてきた証でもあり、必ずしも不幸を意味するわけではない、と。

 国際政治や軍事のあり方、他国やマイノリティの目線も含め、戦争や被爆の記憶やそれを踏まえた平和論については、反省とアップデートが続くのだろう。その中で、多面的に捉える上での不可欠な視点として、上述のような、原爆投下の被害を受けた人々の視点、如上の創作やその基である一次証言、二次証言…等の価値は言うまでもない。記録され、情報が保存されない限り、それは議論の俎上にさえ上がることが出来ないのだから。そして、今はきっと、保存のタイムリミット一歩手前だ。

 本日はこの辺りに留める。次回は、執念の取材で、原爆・被爆にまつわる忘れ去られた記憶を掘り起こし、既知の事実に新たな方向から照らし出す一冊のルポルタージュを紹介したい。縷々述べてきた、戦争の記憶とその現状を踏まえたときに、とても重要な意義を持つ仕事だ(僭越ながら)。

その一冊とは、堀川惠子著『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』。

 

・言及した文献について

 

 井伏鱒二『黒い雨』は新潮文庫などに、原民喜の著作は新潮文庫『夏の花・心願の国』、岩波文庫『小説集・夏の花』などにそれぞれ所収。

 戦争の記憶そのものを研究した下の二冊は、共に良作。佐藤(前掲)は、丹念なメディア史の研究から、馴染みある記憶や記録の根源を、見事に抉り出す。議論に投じる一石も含め、歴史学社会学の一つのお手本と言える労作。古市(前掲)は、軽快な取材と多くの文献から、現時点での戦争の記憶の見取り図を提示する本。こちらは軽妙で読みやすい文章と、肯定にも否定にも触れ過ぎない、バランス良い現状認識が魅力。

 

佐藤卓己(2005→2014)『増補 八月十五日の神話――終戦記念日のメディア学』、ちくま学芸文庫

古市憲寿(2013)『誰も戦争を教えてくれなかった』(改題、2015、『誰も戦争を教えられない』)、講談社

読書録「奇術師の家」魚住陽子:愛に業に、家という場で

 読書好きとして幸運なことに、自分の知らない素敵な本を勧めてくれる友人がいる。その人の本棚を眺めると、自分の蔵書とそこそこ似通った、それでいて自分の知らない範囲にも手が伸びている、見事な収集が見出せる(陳列のセンスは、自分よりずっといい)。「かなりの程度本の趣味が被っているからね」とはその人の弁。被っている部分があるからこそ、被っていない部分からの恩恵が大きくなっているのだろうなと、勝手に考えている。表題の本は、そんな恩恵の一つだ。

 

 表題作「奇術師の家」の他、「静かな家」「遠い庭」「秋の棺」の四本から成る短編集。どれも、女性たちの生とともにあり、女性たちが「宰領」する場である「家」(的なもの)にまつわる物語だ。同時に、女性たちの関係性、愛とも業ともつかない相互作用の物語でもある。生の残り時間が少ない母と、母の思い出の場である旧家で同居する娘(『奇術師の家』)。瀟洒な一軒家の内部を、自らの身体の一部のように慈しみ一体化する「妻」と、その家に執着を見せる夫の愛人(『静かな家』)。マンションの室から見える学校の校庭に、儚い何かを託す主婦と、尖った頑なさを持つ上階の少女の、どこか親子のような関わり(『遠い庭』)。

 物語の中で、家という場は、女性の「宰領」する空間として現れる。主たる女性たちの思いや記憶や人生は、家という空間に滲み渡り、逆に家という場が女性たちの何かしらを規定するようでもある。両者の渾然一体たる存在感は、第二短編「静かな家」に、特にくっきりと姿を見せる。

 言うまでもなく、家という空間が、女性と結び付き溶け合う場として現れるのは、直近の日本において、家族という”私的”な領域、その具体的な空間としての家が、女性の主たる活動領域とされてきたからである。言い方を変えると、専業主婦となりケア労働を担うという女性のライフコースが典型として存在していたからだ。*1そうした背景も含め、物語の中に見いだせる美しさは、ある程度懐古的かつ古典的だ。しかし、登場する女性たちは、母や妻といった典型的なあり方から、どこか”逸脱”していたり、何かしらの欠落を抱えていたりする。「遠い庭」や「静かな家」の主人公は「母」ではないし、後者に至っては、夫と主人公の関係は、儀式的で妙に美しいものの恐ろしく酷薄だ。家という場の中で、女性たちが抱える何かしらの歪みは、他の女性(や男たち)と絡み合いながら、変容を迫られる。人も家も、ずっと安泰ではいられない。過去や現在の他者は、支えもするし傷つけもする。

 古典的な様式美の表現と、その中から静かに姿を見せる生々しい思いと。全体を通して、どこか鈍く察しの悪い主人公たちの目線を通して、それらが徐々に現れる様は、上質なミステリーのようでもある。所々で行われる、さりげない視点の転換(妻の目線での語りに、夫の視点が入り込んだり...)も、程よく幻惑的に物語を引き立てる。ある種の崩壊が描かれる「静かな家」や、もっとも業が深くミステリー然とした「秋の棺」(この短編は、他のと少し毛並みが違う)も含め、後味は不思議に悪くない。

 

 冒頭に書いた通り、この本との出会いは、素晴らしい友人に負っている。その人に教えて貰った本をダシに文章を書くのは、これが初めてではない。お互い高校生であったころ、借り受けた本で読書感想文を書かせてもらったことがあるのだ。思い返すと、何だか一方的に恩恵を受けている気がしてくる。人生経験や蓄積の差だろうか。互恵関係を目指したいところだが、さてどうすれば。

 

  

*1:

この辺の詳しい経緯や考察、近現代の家族と性別役割分業などについては、以下のような(広義の)社会学の文献がお奨めです。瀬地山(2001)・落合(1994→2004)が読みやすく、特に落合は基本を押さえている。上野(1990→2009)は重厚かつ理論的ですが、文章自体は読みやすい。

落合恵美子(1994→2004)「21世紀家族へ(第3版)――家族の戦後体制の見かた・超えかた」、有斐閣

瀬地山角(2001)「お笑いジェンダー論」、勁草書房

上野千鶴子(1990→2009)「家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平」、岩波書店

映画録「ぼくと魔法の言葉たち(LIFE,ANIMATED)」:ディズニーの魔法と、それだけでは済まない世界と

(※ネタバレ有り。)

 「ぼくと魔法の言葉たち(原題:LIFE,ANIMATED)」、心温まる感動系かなあと思いきや、想像以上に緻密なドキュメンタリー。

 大学卒業を間近に控える青年、オーウェン・サスカインド。彼は自閉症のために、2歳にして一度は言葉を失った。孤独の中にあった彼が大好きなのは、「アラジン」「ダンボ」「ライオン・キング」といったディズニー・アニメーションの名作たち。そんな彼が6歳のある日、ついに発した言葉は、「リトル・マーメイド」にある台詞だった!オーウェンは、ディズニーの生み出す物語やキャラクターを手掛かりに、他者や社会の在りようを理解し、いつしか意味ある言葉をも取り戻す。

 と、ここまでが、予告や宣伝でもクローズアップされた内容だ。多くの人は自力で、いつ達成したかも分からないほど自然に出来、また日々行っているのであろう他者や社会の理解。だが、オーウェンの感受性にとっては、周囲の世界は複雑に過ぎ、刺激も強すぎる。そんな彼にとって、単純化され誇張されたディズニー・アニメの世界は、知覚と理解を助けてくれるものである、そうだ。「物語の力」の一つを、ありありと見せられたかのよう。

 しかし、この映画が直に映し出すのは、あくまで青年の、大学を修了し「自立」の時を迎える時点での、オーウェンとその周囲の姿だ。如上の過去については、インタビューや写真、再現アニメ(ドラマではなく!)を通じて構成される。(勿論十二分に見事だが。特に、言葉を取り戻すまでを振り返る両親の姿からは、それが今なお感情を強く揺さぶる、現在に通じる記憶であることが推察できる。)

 このドキュメンタリーの主眼は、ディズニー作品を手掛かりに現在を生きる彼の、「自立」に向かう物語にこそある。そこでは、ディズニー・アニメーションが今も変わらず彼を支える一方、ディズニーの世界には表れない「社会」の側面が、壁となって立ちはだかる。

 一つの軸となるのが、恋人(恐らくはオーウェンに近い障害を抱えているのだろう)との関係だ。アニメの中のロマンスは大概、軽いキス付きのハッピーエンド。しかしオーウェンと恋人との人生は、他の数多の恋人同士と同様、それだけで済むはずもない。オーウェンの兄ウォルトが、「軽くない」キスや「それ以上のこと」を、教えようとするシーン。何気なく振舞おうとするウォルトだが、映像からはその苦心が伝わってくる。「彼(オーウェン)の世界の基本は、ディズニーだからね」。

 そして訪れる、一面ではありふれた、しかし痛切な破局。「男の子が愛する女の子を失ったら?愛の力で取り戻す?」と問うオーウェンは、「他の相手を探す」との答えに、癇癪に近い憤りを露にする。一時間半ほどの本作で、彼が「怒り」を見せる数少ない場面だ。

 作品の最後まで、彼の周りは、ディズニーに充ちている(部屋の中や身の回りにも、随所にディズニーグッズ)。オーウェンとディズニーがかける魔法は、家族や各種のケアと同様、確かに彼の力であり支えであり続けているのだ。しかし、その魔法だけでは足りないこともある社会で、彼は「自立」を目指し歩む。大学を卒業し、独り暮らしを始め、恋人との別れに折り合いを付けようと葛藤し、映画館(!)の採用面接を受けて就職し......。

 物語を通じて社会を解釈するという点に(本作とは質が全く違うだろうが、自分にも思い当たる節がややある)惹かれて見た映画は、障害を抱えて生きる一つの人生を、特にその重要な転機を、繊細に追ったドキュメンタリーだった。いい意味で裏切られたという感じ。

 

追記:社会学徒の端くれとしては、作中で理想として(オーウェン本人も含め)語られる「自立」が、福祉やケアと絡めてどのように意味付けられてきたのか少々気になる。勿論目指すべき価値ではあろうが、単純に理想化されてきた/されているわけじゃないかも。

 

ご挨拶とご案内

 初めまして、拘りや好みを徒然と書いていこうと思います。名前のBankは、銀行ではなく河岸、湖岸のつもりです(同音同型の英単語)。

 以下、今後書きそうなジャンルを思いつくままに。

 

  1. 読書:長らく趣味。特に好きな文学及び小説は、川上弘美(『神様』、『ざらざら』)や米澤穂信(『古典部』シリーズ、『小市民』シリーズ:前者はアニメ『氷菓』の原作と言った方が今や通じる?)。批評なら宇野常寛(『リトル・ピープルの時代』、対談本『新しい地図の見つけ方』)推し竹内洋教養主義の没落」は、教育社会学に初めて触れた思い出の本。
  2. 映画藤原帰一(”映画を見る合間に、国際政治を勉強してい”るという東大法学部教授!、ご本人Twitterのプロフィールより)教授の映画評に惹かれて、最近見るようになりました。「あなたを抱きしめる日まで(原題:Philomena)」、「大統領の執事の涙(THE BUTLER)」、「ニュー・シネマ・パラダイス(Nuovo Cinema Paradiso)」、「あえかなる部屋 内藤礼と、光たち」等々おすすめ。
  3. 音楽:J-POP中心です。もっと広げたい。いきものがかり(『放牧』中!)は、人生観に影響したと言っても過言ではない。御三方の化学反応が大好きですが、中でもギター&リーダーの水野良樹さんは「尊敬する人物」。いつかサインを頂戴したいなあ...
  4. 政治:いきなり不穏に見えるかもですが、多分毒にも薬にもなりません、ご安心を。いわゆる床屋政談や選挙ウォッチが好きな素人。オタク的な政治好きです。政治的選好、全体としては中道左派くらいかなあ。漸進主義で穏健派な政治家が好き。罵倒嘲笑や誹謗中傷、ましてや差別の類は断じて書かない方針です、念のために。
  5. 学術社会学、教育社会学のお勉強中。「社会学とは何か」を、自分の言葉で語れるようになったら一人前だと勝手に思うけれど、そこまで行けるかどうか。政治学や法学もつまみ食いしています。好きな科目は国語と社会(歴史と公民系)のド文系でした。数・理もやっとくべきだった。
  6. 特撮:平成仮面ライダー第一作「仮面ライダークウガ」は、人生観を形成した大好きな作品。今だってこの雨を降らせてる雲の向こうには、どこまでも青い空が広がってるんだ!......平成ライダーを中心に、特撮好きのまま年を経ています。ライダーなら「アギト」「555(ファイズ)」「電王」、戦隊なら「シンケンジャー」をお薦め。

 この他、お茶やコーヒー好きの甘党なので、そんなとこにも触れるかもです。一先ずはこんなところで。